桜井 Michelle 亜美
2020年4月13日
16時にシアター桜ヶ丘で澪と待ちあわせ。
iPhoneのメモに赤字で書いたスケジュールを、もう何度見直しただろう。
昨日のzoomミーティングで、澪に「緊急でどうしても相談したいことがあるから、明日どこかで会えれば」とチャットを送った。
澪からの返事は「渋谷のシアター桜ヶ丘で仕事してるから、夕方きてもらえれば」。ついでにLINEも聞き、時間の打ち合わせもできた。
もし他のメンバーに会ったことがバレたら、あたしが責任をとってゲームから離脱するつもりだ。たとえオーディションから追放されても、今、澪と会うことのほうがずっと大切だった。
もうあたしは見えないルーティンの鎖にがんじがらめになったストレスOLじゃない。この新しい世界線では、気持ちを偽らずに生きることが正義。だからあたしもそれに従う。
約束の30分前、渋谷駅の副都心線改札を出て地上を歩く。
駅前のスクランブル交差点はがらんと静まり返っていて、まるで透明なアイスブルーのドームに覆われた火星のコロニーを歩いてるみたいだ。自分の鼓動の音だけが、アスファルトに響いて跳ね返ってくる。
その音がどんどん大きくなるにつれて、澪に2人きりで会うことの重さに耐えきれなくなる。帰りたい。あたしはなぜこんな自分を追いつめる約束をしてしまったのか。届かない想いは、石鹸の虹色の泡のように、曖昧なまま消えていくほうが綺麗なのに。
桜ヶ丘の坂をのぼっていくと、やがて右手のタイ料理レストランの手前のビルにシアター桜ヶ丘の看板が見えてくる。細長い階段を降りるとびっくりするほど濃密な空気感の、広々とした地下帝国が現れた。
壁もカーペットもドアも椅子も、何もかも深い赤。
1番手前のシアターに入り180席の中央の席に座ると、宮殿に篭城した女王の気分になる。貸し切りは淋しいけど、映画館を独占するのがこんなにゴージャスな気分だとは知らなかった。
子供の頃、親に連れられて映画館に行くと、すごく貴族的な気分になったのを思い出す。指定席は玉座で、真っ白なスクリーンは美しい王国を見渡す窓だ。
「何も映ってないスクリーンを見てると、その人の人生を変えた映画が見えてくるんだって」
振り向くと、いつのまにか澪が2列後ろの席に座っている。
最初からそこにいた?
あたしは驚きを隠してさりげなさを演じながら、スクリーンをじっと凝視する。
最初はペールブルーの靄の向うに、男女のシルエットが見え隠れしている。2人はたぶん裸で、顔はよく見えない。やがて靄が晴れて、アヤメとベッドでキスしている澪の姿が見えてくる。『月虹』に出てきた澪の部屋での濃厚なベッドシーンだ。
澪はアヤメの胸をつかんでキスをし、そのまま身体を抱きしめて重なった。いつもとは違うサディスティックな欲望が宿る眼と波打つ筋肉の動きに、胸が苦しくなって、思わず顔をそむけてしまう。
これがあたしの運命を変えた映画?
「何が見えた?」
澪に聞かれて、あたしは一瞬、言葉が見つからず首を横に振った。
今日こそ本当のことを話そうと思っていたのに、「月虹」がどんなにショックだったか伝えたいのに、やっぱりまだためらってしまう。あたしの心にはまだ、古い世界のダークグレーの錆がこびりついている。
「何も。澪は何が見える?」
「映画をやりたくなったきっかけの『リリイ・シュシュのすべて』。クラスのボスの命令で援助交際をしてる詩織役の蒼井優が、ボスの手下の市原隼人と川沿いを一緒に歩きながら川に飛び込んで泣くシーン。その後、詩織は自殺しちゃうんだけど・・・。」
「あの映画が人生を変えた?」
「同じミュージシャンの歌を崇拝してるのに、支配したり支配されたり、イジメたりイジメられたり・・残酷な人間関係に傷ついていく中学生の危うさ・・あの頃の自分を思い出して胸が痛くなる。ぼくの通ってた中学もかなり荒れてて、クラスメイトがイジメで自殺した。何もできなかった自分が悔しくてたまらなくて。リリイに出会って、その気持ちを映画にしてみたいと思ったんだ」
そんな話、初めて聞いた。澪はいつも淡々としていて、自分の過去について仲間に聞かれても、心の深い水底は決して見せなかった。
なのに今、感情を強く揺さぶられた秘密の瞬間を打ち明けてもらえた。
たまらなくうれしい。
あたしはもっと胸の奥に横たわる光と闇を見せあいたくて、でも少し気恥ずかしくて、俯きながら言う。
「澪が作ったその映画、見たい。あたしも中1の頃、クラスでハブられて夏休みに海で死ぬ自殺計画をたてて・・・。マンガでめっちゃ詳しい計画書まで書いたんだけど、結局できなかった。でも時々、その計画書を見返すと、少しだけ気が楽になった。いつでも死ねるなら今日は生きようって」
「そっか・・・。その話好きかも。自殺計画書は生きるための計画書なんだ。今度見せてほしい」
あたしは笑ってうなづいた。
そんなガキの頃の青臭い葛藤に興味を持ってもらえるとは思わなかったから心がふわっと宙に舞ったし、澪をすごく身近に感じる。
いつのまにか、ここに来たときよりずっと前向きな気持ちになっていた。
「このシアターの空気、すごく好き。映画祭、成功すればいいね」
「ありがとう。ぼくはここで見た映画に数えきれないほど助けられた。このシアターがもし死んだら後悔でいたたまれないから、何が何でも助けなくちゃって」
「あたしにできることは何でも手伝うから言って」
そう言うと、澪がいきなりこっちに腕をぐっと伸ばして「胡月もやってみて」と言ったので、鼓動が止まった。痛いほど手を伸ばしても、あと数センチで澪の人差し指に届かない。
「2mってこれぐらい。近いのに遠い。話しかけられても気づかないぐらい」。澪がそう言った瞬間、身を乗り出していた澪の体が揺れて、2人の人差し指がかすかに触れる。あっ、ごめん。慌てる澪。全身が熱くなって、自分でも驚愕する言葉が口から飛び出す。
「ソーシャル・ディスタンスなんて気にしないで済む1番いい方法は、一緒に住むことだよね」
こんなの、どう聞いても同棲の誘いだ。あまりにも突然で、澪はきっと困惑しているに違いない。でも彼は驚いた顔もせず、さりげなく受け流した。
「うん。ルームシェアしてれば感染リスクも運命も道連れだし」
澪の優しさに救われたような、もっと突っ込んでほしかったような、複雑な気持ちで曖昧に笑った。
シアターの事務所に案内するという澪について、階段で4階に昇る。
小さなホールぐらいの広さのフロアには、手前にパソコンの置かれたデスクの島があって、その奥にはぎっしりDVDやフィルムが詰まった本棚と、照明や音響機材に囲まれた会議室があった。
澪は1番端のデスクに座ると、パソコンを開いて「桜ヶ丘映画祭」のサイトを見せてくれた。デザインのセンスが最高と言うと澪はうれしそうに言う。
「ありがとう。胡月にほめられるとめっちゃその気になる。今まで言ったことないけど、映研で作った『オーロラの日』を見て胡月がぼくの美術を凄くほめてくれて、それでこの道に進もうと思えたんだ」
その瞬間、自分の耳を疑った。
信じられない。
あたしの言葉に澪の人生を変える力があるなんて。
「それが美術をやるきっかけ?」
「うん。徹夜で作った小道具の絵を凄いってほめてくれて。主人公の部屋には、この絵やカレンダーや猫足のソファがなくちゃダメなんだって。部屋はその人の世界だから、それが好きじゃないと物語に入れないって。そんな風に自分の作った美術を見てくれる人がいるなら、この先もずっとやっていけると思った」
あたしも澪の力になれる。
澪の背中を押せる。
ずっと言葉を覚えていてもらえる。
小さすぎて消えそうな自分が、ゴージャスなベルベッドのレッドカーペットに招待されて両手いっぱいに青い薔薇を贈られたような、そんな瞬間、きっと人生に2度はない。
どんな顔をしたらいいか分からなくて、振り返って白いスクリーンを見つめる。そこにはたった5秒前の澪とあたしが、忘れられない名作のワンシーンのように、美しく青みがかったフィルムの映像で映し出されていた。
やがて澪が音もなく通路を歩いてあたしの前に立つ。
少し猫背の、でも骨格がとても綺麗な身体に、細身のパープルグレーのTシャツがよく似合う。澪がデザインした、背中に猫の絵がある映研のサークルTシャツだ。
「ごめん。胡月の緊急の相談、まだ聞いてなかった。1番最初に聞くべきなのに」
澪に聞かれてあたしは言葉に詰まる。せっかく徹夜で用意してきたセリフは頭から吹っ飛んで真っ白になっている。無意識にずっと話したかった言葉が蘇って、ついに口から出る。
「ほんとはさっき白いスクリーンに見えたのは『月虹』で澪とアヤメがやったベッドシーンだった・・」
「え?」
「『月虹』は凄かった。2人の演技は天才的だし、胸をぎゅっとつかまれて苦しくなった。キスも見つめ合う眼も、全部、本物の恋人同士にしか見えなくて、それがリアルに起こったことだとしか思えなくて・・・。作品としては素晴らしいけど、個人的には凄く辛かったんだ。あたしはガキだから、撮影現場で役者が本気でやったことは、どうしてもフィクションに思えない」
「・・・・」
「だから地獄ゲームであたしは澪と組みたい。澪の恋人として生まれて初めての・・たぶん一生に一度の主役をやりたい。そうすれば『月虹』を越えられる。きっとジェラシーを忘れられる」
澪は無言のままじっとあたしを見つめる。
それからかすかに眼を細めて、照れたように視線をそらした。
「ぼくは今でも演技なんか全然、自信がない。だから美術担当になった。『月虹』はニシの脚本と演出が凄かったし、アヤメの演技にも助けてもらった。ぼくはただ言われた通りにやっただけ。演技力なんて素人だって自分でもわかってる」
「ううん。スクリーンの中で苦しんだり恋をしてる澪がリアルすぎて、10年間忘れられなかった。澪は人よりたくさんの感情や感覚の引き出しがあって、それを演技じゃなくて生のまま見せてくれたのかもしれない。それが才能だと思う。あたしもいつか、そんな芝居がしたい」
澪は暫く無言で俯いていたけど、やがて長い前髪で眼が隠れたままかすかに笑った。
「かいかぶりすぎだけど・・・ありがとう」
「あたしは役者の澪と美術部の澪、両方のファンだよ。澪がいなかったら、映研はとっくにやめてた」
「もし、ぼくでいいなら一緒にやろう。主演に選ばれるかはわからないけど、自分なりに精一杯がんばるよ」
絶対断られる、と身構えていたあたしには、澪の言葉が死ぬほどうれしかった。
たとえ演技だって恋人役をやるのは相手を選ぶ。澪から異性として合格証明書をもらったような気がしたのだ。
それからあたしたちは主演を勝ち取るための相談を始める。
「あたしの演技はいつもニシに、嘘くさくて感情が入ってないってディスられるから・・。恋人として自然に振る舞えるように、できるだけ時間を共有しよう。もちろん距離は守るけど、日常的に近くにいないと2人の関係が信じあっているように見えない」
「うん。そういえば今、映画祭作品の紹介サイトを作ってるんだけど、1人じゃなかなか進まなくて。胡月は文章うまいし映画もたくさん見てるから、紹介文やレビュー頼んでもいい?ここに来てくれれば本編も色々なデータも見られるし、色んなこと話せる」
「うわっ、そんな仕事手伝えるなんて最高。何百本でも書いちゃう。今、会社の仕事はリモートだから、毎日ここに通うよ」
澪と時間を一緒に過ごせるのも、手伝いを頼まれたのも純粋にうれしかった。
2人の間に「映画」がなかったら、絶対成り立たない関係。
映画が好きでよかった。映研に入っていてよかった。
きっと人間の選択なんて、70%はそんな不純な動機で成り立っている。