シチュエーション・ラヴ

桜井 Michelle 亜美

2020年4月8日

 桜吹雪が舞う夜、小さなバルコニーで金色の月を見ていた。

 水槽から海に放たれた海月みたいに、ふわふわ意識が漂ってる。精神的に不安定なのに自由がうれしくてたまらない。奇妙な感覚だ。

 緊急事態宣言で会社の仕事はテレワークになった。殺人ラッシュも上司の粘着な説教も監視の眼もない。それが会社勤めで欲望の回路が狂っていたあたしの体に、想像もできなかった変化を起こした。

 近くの公園から漂ってくる甘くてエロい羽衣ジャスミンの薫りが鼻孔をくすぐると、忘れていたもどかしい感覚が蘇ってくる。

 1年ぶりに、したい、と欲望を感じたのだ。

 今までは夜10時に職場から帰社すると、駅前のエクセでコーヒーを飲みながらIQOSを吸いまくって毒消しをしていたし、そのあと部屋にたどりつくともう性欲なんてストレスと疲労に吸い取られて、跡形もなく消えている。そんな生活のくりかえし。

 こんなバンデミックな事態になって、やっと何年も耳をふさいでいた身体の声に気づくなんて。ストレスを吸い込んで毒を吐くことで保たれていた、あたしの世界線が別の世界に繋がった?

 ベッドに横たわって眼を閉じ、窓の外は白い砂のビーチと真っ青な海でマゼンダのブーゲンビリアが咲き乱れていると想像する。ここは地球じゃない。満員電車も職場の陰口も毎月の収益決算書もないし、上司の皮肉もグチもパワハラもない。

 顔の見えない誰かとセックスしている自分を想像して、体温が少し高く呼吸が早くなってきたら、柔らかなタッチで刺激をはじめる。想像の「誰か」は筋肉質で少し前髪が長くて、指がとても細くて長い。その指であたしの手を握りしめて、額に汗を滲ませながら腰を動かしている。

 やがて腰の動きが少しずつ激しくなり、前髪で眼が隠れた彼はあたしにキスをして「いっていい?」と囁く。あたしは眼を閉じたままうなづいて、刺激をもっと強くする。最後に体がふわっと宙に浮いて、鼓動が5倍の早さで響き、ねっとりしたダークチェリー色の甘い蜜が意識を浸す。

 彼、が荒い息に胸を波うたせながら、あたしの上に崩れ落ちてきたその一瞬、前髪の間から澄んだブラウンの瞳が見えた。

 あたしはその眼をよく知ってる。

 川波澪。

 通っていた私大の同じ学年で、2人共、映画研究サークルのメンバーだった。手さえ握ったことがない、ただの仲間。でもずっと好きだった。映研での日々は毎日、その背中を、横顔を、意識するためにあったし、4年間、辞めずに続いたのも彼の近くにいたかったからだ。

 こんな時に、手さえ握ったことがない澪を欲望の対象にする自分のゲスさを、突きつめて考えたくない。考え始めると、無重力の甘美な真空から転げ落ちて、堅い地面に転落する。自分の欲望がキラキラ光る綺麗なものだけで出来てるなんて、アラサーのあたしにはもう思えなかった。

 今は心をリセットして真空のままでいよう。あたしは眼を閉じて荒い呼吸で胸を波打たせながら、めまいに似た浮遊感覚に浸る。

 いつのまにか浅い眠りに溶けていた。

 ふと眼を覚ますと、窓の外はもう真っ暗だ。

 その瞬間、体の奥で眠っていた新しい意識が眼を覚まして、生まれたての子猫のように身体を震わせているのを感じる。

 これも新しい世界線がもたらした変化なのか。

 とうとつに思い出した。 

 あたしは2016年の夏にそれまで胡月紗菜だった女を殺したことを。

 どうしても役者の仕事をやりたくて、毎週末、演技のワークショップに通い、チャンスを掴むためなら何でもしたあたしは消えた。

 卒業の年に映研で部長のニシが撮った自主映画「月虹」が、5年越しで編集されて、幾つかの映画祭で優秀賞をとった。スクリーンでそれを初めて見た日に、映画も演技もたまらなく憎くなったのだ。

 その日からあたしは夢を捨てた。胡月紗菜は通勤の朝と日曜の夜には腹痛に悩まされ、嫌いな上司を東京湾に沈める妄想に耽る、ごくありふれたストレス漬けのOLになった。

 夜8時、夕食のパスタを作っていると、意外な相手からLINEがきた。映研の監督だったニシだ。つまり「月虹」の監督でもある。

 「明日、久々に飲むけど来ない?」

 ニシは今、映像の制作会社に所属している。自粛前はCMやドラマの撮影に追われていたはずだ。 セフレへの誘い、なわけない。だってあたしはニシにとってただの「死体」だから。

 映研時代、あたしにくる役は死体やちょい役ばかりで、台本に役名はなく、「死体A」とか「店員B」しか書いてなかった。スクリーンで自分を見ても、役者として評価されていたサークルの看板女優、アヤメみたいに強烈な存在感はどこにもない。

 誰の眼にもとまらない、透明人間みたいなモブキャラだ。

 それが辛くて、2年の途中からは美術や照明を手伝う裏方に回った。卒業してから普通の会社員になったのも、また才能というモンスターに振り落とされて惨めな思いをしたくなかったから。

 悔しさが、今も胸の真ん中にわだかまってる。それでも最後まで映研をやめなかったのは、時には大げんかをしてでも面白さを追求する映画の現場が大好きだったし、そこに「彼」がいたから。

 「2年ぶりの映研飲み、参加求む。っていってもZOOMだけど。アヤメも澪もタクミも・・部員みんなくるよ」

 LINEに浮かび上がったニシのメッセを見て、鼓動が早くなった。

 川波澪がくる。

 さっきの妄想で召還してしまったことを思い出して、思わず全身がかっと熱くなる。

 仄暗いダークブルーの罪悪感と、澪に会える淡いオレンジ色の期待のグラデーションの狭間で、あたしはいつまでもLINE画面を見つめていた。

 夜9時、別世界への入り口のように、ZOOMのミーティング画面が開く。

 星空の写真を背景にしたあたしのアイコンが、映研時代のコアなメンバー6人と一緒に画面に並ぶと、全員が口々に久しぶり、と迎えてくれた。

 ダークヴァイオレットの摩天楼を背景にした紫遙は、学生の頃から治安が悪いイケメン役者として人気があったけど、今はYouTuberとの兼業でそこそこ稼いでいるらしい。いつもヒロイン役だったアヤメはキャバ嬢をやりながら演技留学の資金を稼ぎ中だし、ヘアメイクと衣装を担当していたユラはスタイリストになった。

 役者兼制作部だったタクミはあたしと同じく、映像に無関係な普通の会社員だ。

 「このメンバーの中にいると、負け犬の烙印を押されている気がして肩身狭いよ」

 自嘲的に笑うタクミへの共感を隠して、あたしは沈黙でスルーする。才能のカケラもないのにプライドだけは人一倍高いよね、と自己つっこみの針で心をチクチクさして、そんな自意識にまた少しうんざりする。

 そしてあたしの隣りにある、深海で泳ぐ魚たちのアイコンが「彼」、つまり川波澪。切れ長の鋭くて淋しそうな眼が、笑うと急に幼くなる不思議なギャップは、学生時代と少しも変わってない。いや、長髪ぎみだった髪がすっきりしたぶん、若々しくなって高校生みたいだ。今は映像会社の美術部に所属していて、最近、ドラマや映画で時々、クレジットロールの名前を見る。

 「久しぶり。元気?」

 澪が片手をあげて声をかけてくれたので、あたしはぎごちなく笑って挨拶代わりに言った。

 「この前、今泉監督の新作のクレジットロールで澪の名前みたよ。凄い出世。あの作品大好きだし、メインで美術やってるなんて感動した」

 「おっ、見てくれたんだ。ありがとう。めっちゃ苦労したけど、胡月の今の言葉でおかげで報われたかも」

 たったそれだけの短い会話。でも、学生の頃、あたしたちを繫いでいた心の糸がまた蘇った気がしてうれしくなる。澪と言葉を交わすと、いつも心の温度が少しだけあがり、心臓の血が今までより紅く鮮やかになる。自分の存在がイメージしているより、少しだけ大きくなれた気がした。

 その感覚があたしにとってどんなに大切なものか、大学を卒業してから思い知った。ただの恋とか好きとかだけじゃない、もっと人生全部を左右するものだったのに、「月虹」を見た衝撃でその強い感情は意識の底に沈んでしまった。

 ビールやワインで乾杯し、それぞれビザやパーニャカウダーをつまみながら近況報告を始めると、すぐに機材や美術道具がひしめきあう古びた部室での呑みモードに戻ってしまう。最初は映像の道に進んだメンバーと、道を外れたメンバーの見えない壁があったけど、みんなの前にビールやチューハイの空き缶が並ぶ頃には、それさえ消えた。

 気がつくとあたしはずっと澪の顔ばかり見ている。黒い長袖のTシャツと細身のデニム姿で床のクッションに座った澪は、自分からはあまり強く主張しない。どちらかというと聞き役だけど、みんなに発言が一目置かれていて、彼のぽつんと喋る言葉がよく会話の流れを変える。

 「澪の仕事、今、どんな感じ?あたしは衣装部で決まってた3ヶ月分の現場が全部吹っ飛んだ」

 「こっちも同じ。週末働いてるミニシアターもこのままじゃやばいから、配信映画祭で少しでも客を集めようと思って、今、1人でホームページ作ってる。まあインディーズ系がメインだけど」

 「じゃあニシの最高傑作『月虹』も配信しなきゃ」

 あたしはタクミの言葉に顔が上げられなくなる。

 あたしの人生に、決して拭えない黒い泥のようなトラウマを持ち込んだ映画。そんな作品のタイトルを、映画の主役だった澪とアヤメの前で聞くのは、あまりにも辛かった。

 「そういえば澪の部屋、『月虹』の撮影で使ったよね。今も吉祥寺に住んでるの?」

 アヤメの問いがひどく意味深に聞こえて、あたしはじっと澪の表情を見つめてしまう。あの時、アヤメと澪の間に、単なる共演者以上の関係があったのか、みんなが噂していた。真相は今も分からない。

 「うん、『月虹』のロケで撮影に使った部屋。社会人8年目なのに、相変わらず築50年家賃5万のワンルームに住んでるっていう・・・」

 澪がそう言った瞬間、18歳の幼いあたしが感じた、心臓の根がひきちぎられるほどの痛みが蘇ってきて、そのまま画面からフェイドアウトしたくなる。

 「月虹」。ニシの監督第1作だったこの忌まわしい映画のせいで、あたしの人生は台無しになった。

 ニシはまだ役者になるかスタッフになるか決めかねていた澪を主役に抜擢し、澪の部屋を主人公の部屋としてそのまま使ったのだ。恋人役は劇団での子役経験があるアヤメが選ばれた。

 撮影は2010年だけど、翌年起こった震災のせいで完成はどんどんあと伸ばしになり、追撮を重ねて卒業から4年後やっと完成した。そしてPFF映画祭で入選して京橋のシアターで上映されたのだ。観客席で見ていた自分の心臓が冷たくフリーズした瞬間を、今も忘れられない。

 澪とアヤメは同棲している恋人同士の設定で、冒頭から生々しいベッドシーンがこれでもかというほど繰り返し出てくる。

 監督としてのニシは演技に徹底したリアルを求めるタイプで、しかも「月虹」はジャン・ジャック・ベネックス監督の「ベティブルー」へのオマージュだ。「ベティブルー」はセクシーでキュートだけど精神的に不安定なベティと作家志望の中年ゾルグのエロティックで衝撃的なラブストーリーで、本能に任せたラブシーンと絶望的な結末がカルト的なファンを集めた。

 あたしも含めて、コアな映画好きならこの作品の好き率は高い。

 恋や激情に振り回されて自分で自分をコントロールできないヒロインと、10代の幼い自分を重ねて、心のどこかで共感してしまう。

 撮影が決まった時も、ニシは「月虹」で日本版の「ベティブルー」を撮りたい、と宣言していたっけ。

 澪の演技力は鬼気迫っていた。女のあたしでさえ見惚れるエロい身体を晒したアヤメとのラブシーンは息を呑むほど官能的で、愛しあってる本当のカップルのセックスそのものだ。それにAVと違って1つ1つの感情表現が自然でリアルなぶん、友だちの行為を覗き見てしまったような、どうしようもないいたたまれなさに襲われる。

 澪はあたしが片思いしていた相手なのだ。

 制作の雑用係として参加した撮影現場がどんなに拷問だったか、映画を見ているうちにどんどん蘇ってきた。

 2人の息遣いも、抱きしめる指先も、見つめあう眼差しも、あたしの中ではすべてが演技ではなく本物だった。カットがかかってからも、アヤメを気遣って裸にタオルをかける澪や、おたがいにしか分からないキスの失敗で笑いあう2人をみていると、心臓の回路がねじれて息ができなくなった。

 18歳のあたしはそれぐらい嫉妬深くて、現実とフィクションの区別がつかない未熟な女の子だった。悪寒に襲われ、腹痛だとウソをついてトイレで泣きながら吐いたこともある。

 アヤメを見るたびにあのリアルな場面の数々が蘇ってきて、思わず顔をそむけていた。いくら映画の中のフェイクな世界だと思おうとしても、唇も肌も触れあったらその感触は消えないはずだ。

 だから「月虹」は、あたしの中で抹殺した。

 地球上に存在しない映画になった。

 どんなにメンバーたちがこの映画を絶賛して懐かしそうに話題にしても、あたしは無表情に冷たくスルーする。

 「うわ、懐かしい。『月虹』、最高だよな。撮影してた頃はてっきり澪が役者になって、俺はどっかの営業職かなんかになると思ってたのに・・。まさか俺が役者になるなんて未だに信じらんない」

 紫遥が真顔で言うとタクミも同意する。

 「売れっ子になって、これが人生を変えた作品ですって言う予定だったのに。あの映画の澪とアヤメは神がかってた。もう一回見たい」

 「じゃあ今度上映会しよ。19歳の主演1作目でいきなり脱いだんだから、拝観料もらうけど」

 アヤメの屈託ない言葉に思わず頬のあたりがひきつる。話題を変えたくてニシに向かって真顔でたずねた。

 「それより今日の本題って何?明日の朝イチでリモート会議だから、あんまり深酔いできなくて」

 水を差されたメンバーたちは静まりかえり、ニシの顔を見つめている。ニシは右手でokサインを作って、ぐっと身を乗り出した。

 胡月が悪酔いしかけてるんで、そろそろ今夜の本題に入るけど・・彼はそう前置きしてから、役者に演技をつける時の少し芝居がかった口調でこう言い放った。

 「これから地獄ゲームをやる」

 騒いでいたメンバーたちが突然、無言になる。

 地獄ゲームはニシが発案した、勝ち抜きバトルの演技オーディションだ。「シェアハウスでの殺人事件」とか「恋人が人間を補食する宇宙人だった」とか、ひとつのお題に沿って全員がエチュードと呼ばれるアドリブで話を進め、演技力を判定する。最強王者はいつも澪か紫遙かアヤメで、あたしは大抵、最初に振り落とされた。

 ゆるい居酒屋呑み会から、いきなり全員が蹴落とす敵になる地獄ゲームへ落とされて、緊迫感に心が追いつかない。あっというまに酔いが醒めて、採用試験の会場にいるように胃が重苦しくなる。

 「せっかくいい感じに酔っ払ってたのに頭から水ぶっかけんなよ。なんで今?」

 タクミが眉根をよせてブーイングする。もともと細かったけど、仕事が忙しいのか前よりも痩せて、繊細なエッジ感がますます強くなった気がした。

 確か経営難を抱えたアバレル会社にいて、社内がゴタゴタして大変だと言ってたっけ。

 ニシは少し皮肉に笑って、それから真顔で宣言する。

「仕事が全部吹っ飛んだかわりに、このメンツでミニシアター向け純愛映画を撮る。自粛が明けるまで毎晩zoomに集まるオーディションで、恋人役の相方を口説き落とせ。ただし俺が寒い演技だと判定したらそいつは脱落。本気で好きになって心を射抜け。俺が選んだ2人が主役になる」

 「主役を決めるために本気の恋愛をしかけるって、それじゃネトフリの恋愛リアリティーショーじゃん」

 ユラが低い声で文句を言う。

 あたしも同じことを考えていた。ただでさえキャスティングでいつもズタズタに傷つくのに、もし澪の前で立ち直れない修羅場に追い込まれたら・・・。

 怖くて顔が上げられなかった。主役になりたい。でも皆の前で澪への片思いが晒されて、惨めなどん底に落ちたら本物の地獄だ。

 ニシはいつも「演技をするな。役を生きろ」という。でもあたしは日常が皆の視線を偽る演技だから、それを剥いだら塵しか残らない。

 アヤメの華やかさや演技力への根深いコンプも、ニシのあたしへのC級役者扱いの悔しさも全部隠して、明るくてポジティブな映研マネージャーのキャラを通してきた。リアル世界では徹底的に作り込んだ演技をするのに、その反動でスクリーンの世界では素の暗くてテンションが低いあたしのまま。だから死体役しかできない。

 今までと同じなら、地獄ゲームでのあたしは雑魚キャラとしてすぐに消える。壁の隙間に住むネズミのように、ひっそり物陰で息をひそめてるだけ。

 何かが間違ってる。

 もう映研で居場所を確保するためのキャラ作りも、満員電車でたどりつく砂漠の戦場のために自分の弱みを削ぎ落す必要もない。あたしは自分の欲望の消費のために、ずっと気になっていた澪を妄想に引っ張り出すような薄汚れた心の持ち主なのに、一体、何のために、誰のために、心の声を我慢してるんだろう?

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