蝶を燃やす

桜井 Michelle 亜美

 あたしの左の耳だけ、呼吸できる世界とつながってる。

 この地獄から抜け出して、深呼吸できるたったひとつの場所に行ける。

 あの歌がワイヤレスのイヤホンから聞こえてきて、あたしを高校の教室 から透明な青の宙に連れていく。

 いつも風が吹いていて視界を遮る雲もなく、思いきり深呼吸ができるところ。Youtubeの海底に漂う無名ミュージシャンのボカロ曲から拾った、「蝶を燃やす」の世界だ。

 でも右の耳は、地獄につながっていて、あたしの半分は暗赤色に錆びた鉄格子の牢獄にいた。腐敗した鉄の匂いと、足元の淀んだ泥。

 ふたつの世界に引き裂かれて、心はどっちにも行けない。

 木曜の午後7時、あたしは化学室のいちばん前列に座らされている。

 白衣を着た担任の化学教師、ミブキが、靴音を響かせながらあたしの周囲 を歩きまわる。

 反省文を書けと渡された紙は白紙のままだ。 反省?ふざけんな。セクハラの暴露なら何千字でも書いてやるのに。

 ミブキは狙った女子生徒にしつこく卑猥な陰謀をしかける、鬼畜な教師だ。

 ミブサイコ。

 皆、裏ではそう呼んでいる。

 あたしがタチの悪い上級生から押し売りされたMDMAを持っているのを見つけて、それをネタに化学室に呼び出され、何度も「身体検査」と称して胸や腰をねちっこく触られた。

 本気で殺したい。

 でも学校にバレたら退学だし厳格な親からも叩きのめされるから、今までは我慢していた。

 そして今日も放課後、「反省文」を書くために化学室へ来いと言われたのだ。この絶望の時間を耐えるために、片方の耳だけワイヤレス・イヤホンで逃避している。

「あと3分だ。白紙で出すと麻薬所持で即退学」

 すぐ隣りを歩くミブサイコのすえた体臭に息を止めて顔をそむけた瞬間、皮靴の足音が止まる。心臓がぎゅっと縮まった。ミブサイコは無言のままあたしの左の耳から、ワイヤレス・イヤホンを抜き取る。

「何を聞いてた?」

 彼は机の下に隠したあたしの左手から携帯を奪い取る。次の瞬間、ミブサイコはあたしの頬をグーで殴り飛ばした。

「なめるな」

 意識が白く飛ぶ。ミブサイコはあたしの腕をつかんでねじり上げ、壁に押し付けた。

 背後でドアの鍵を閉める音。

「どうすれば助かるか、分かってるな」

 ミブサイコがパンツのファスナーを開け、あたしの口に自分のそれを入れようとしている。あたしは必死に顔をそむけながら、スカートのポケットに手を突っこみ、冷たくて丸い球体を探り当てた。

 催涙弾ボールだ。

 身体をひねって振り向きざま、ありったけの力でミブサイコの眼をめがけて投げつける。

 ボールの薄い皮膜が破れて白煙が飛び散り、ミブサイコは呻きながら両目を押える。あたしは窓を開けてバルコニーに出ると、手すりを乗り越えて、2階から裏庭に飛 び降りた。地面に落ちていたアルミ板を踏んで大きな音が響く。

 体育倉庫の薄暗い草むらから、同じクラスの岸田漣が半身を起こすのが見えた。B組の沢田翔馬と絡み合っていて、シャツのボタンが下まで外れている。

 キシダが男子と付き合っている、ゲイだと揶揄するような噂を、今まで何度も耳にした。でも今はミブサイコに追われる恐怖に圧倒されて、彼がサワダと一緒にいた意味なんて考えられない。あたしは後も振り返らず、そのまま校門から走り出る。

 ミブサイコを殺さなかったことだけが、たった1つの心残りだった。

 ☆

 雨が激しく降る9月の末の金曜日、あたしは駅裏にあるバーの薄暗い廊下に立っている。壁の鏡に映る、髪をショートにして眼鏡と黒マスクをつけた姿は、男の子にしか見えない。

 美少年系が集まるこのゲイバーのキャストを、3万円で2時間予約した。母親から大検の通信講座代とウソをついて横領したのだ。高校は5ヶ月前のあの日から行ってない。大人の男が近づいてくると、過呼吸が起こって苦しくなるからバイトも辞めた。

 数秒後、思い切って個室の赤いドアをノックする。ブルーのガウンを着た、痩せているけど筋肉質の男の子がドアを開ける。仄青い光と一緒にダブステップの曲が流れ出してきた。

 さっきカウンターで指名した「流星」という名前のキャストだ。微笑んでいても少し淋しそうに見える切れ長の眼は、よく知っている。日の出東高校のキシダが流星の正体だと、先月、高校の裏サイトで見つけた。

 1年の頃、あたしはキシダといっしょに軽音楽部の4人編成のバンドを組んでいて、異性を意識しない友達のふりをしていた。本当はあたしが意識しすぎて、そんな嘘だらけの演技をしないとそばにいられなかったのだ。でも2年になってバンドは解散し、もう友達のふりもできなくなった。

 キシダはまだあたしに気づいてない。緊張のあまり胸苦しさを感じながら彼に導かれて部屋に入り、シアンブルーのシーツが敷かれたベッドに座る。

「1時間コースですね。何かオプションのご希望は?」

 あたしはキシダと眼をあわせないように、俯きながら言う。

「目隠しをしたい。それと手錠も」

 彼の表情が、面倒な客だ、というように微妙に曇る。

「道具を使うブレイの場合は、前払いで追加料金が発生します」

 2万円をキャビネットに置くと、彼は納得したようにうなづく。

 キシダの両手を背中に回し、玩具だけど頑丈な手錠で嵌めてから、自分の眼鏡と黒マスクを外した。

「久しぶり」

 キシダの頬が警戒で堅くこわばる。

「ナナセ。なんで」

「キシダがここで働いてるってネットに出てたから会いにきた」

「からかうつもりなら帰れ」

「違う。あたしを助けてほしいだけ」

 5秒、ためらってから、喉に絡みついた言葉を吐き出す。

「女とでも・・できる?」

 キシダの切れ長の眼がもっと細くなった。

「客としてなら何回か・・でもただの仕事」

 あたしは大きく息を吸って、身体の奥の黒いカタマリを吐き出す。

「半年前、教師のセクハラで学校を辞めた。今も男に触られるとパニックが起こって殺したくなる。生ゴミになったみたいで耐えられない」

「化学室から飛び降りたの、見た。あいつ、マジに処刑してやりたい」

 キシダの声がいつもよりずっと低い。その眼に浮かぶ青い怒りの炎があたしの背中を押す。

「手伝って。治したい」

 初めて、真っすぐキシダの顔を見てそう言った。

「手伝いたいけど、なんで俺なの?何もできないのに」

「キシダは・・キシダだけは、性癖で他人の心を壊せる化け物じゃないから。信じられるから。あたしを好きじゃないのは知ってるけど、あたしは好きだった。だからキ シダにゴミじゃないって認められたい」

 キシダは無言であたしを見つめてから、ぽつんと言った。

「いいけど・・ナナセがして」

 キシダの両目をアイマスクで隠した。あたしが女だと忘れられるように。それから全身の神経を舌先に集中させて、あそこを刺激する。

 20分、無心でやると、キシダはゆっくりと堅くなる。ローションを塗りたくって、生まれて初めて上からの姿勢でインサートした。頭のてっぺんに未知の衝撃が走った。もどかしさに、時々、自意識の飛沫がまざりあう。

 キシダは動かなかったから、あたしが動いた。全身を使って行為を成立させるために。ただ無我夢中で、何かを感じる余裕さえない。キシダが低い呻きとともに射精した

 その瞬間、あたしの中から自意識が引き潮のように消えていく。かわりにキシダの快感が爆発的に流れ込んで、こびりついたヘドロを跡形もなく漂白してくれた。。

 プラナリアのように、とるに足らない生き物になれる喜び。

 でもまだ、終わってない。何だろう?

 

 あたしはキシダの上に乗ったまま、眼を閉じる。

 音楽が聞きたい、と思った。

 キャビネット上のワイヤレス・イヤホンをとり、右の耳に嵌める。そしてもうひとつをキシダの左の耳にはめて「蝶を燃やす」を流す。

⟨ 誰かが楽しむために 軽蔑される痛み / 皮膚の下でもがく蝶 / 指でなぞって燃やす ⟩

 眼を閉じて聞いていたキシダが、ぽつんと言う。

「これ、俺のことだ」

 彼の眼の奥にかすかな光が宿る。

 その瞬間、あたしの右の耳とキシダの左の耳が、風の吹く青くて透明な宙につながった。

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